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左右田喜一郎の貨幣と理性

――若き知性と晩年の思索についての補論――

『経済学研究』(北海道大学)第56巻第2号、2006.11. 147-152頁、掲載稿

橋本努

200611

 

 

キーワード(五つ):貨幣、不換紙幣、評価社会、西田幾多郎、人格の尊厳

 

要約(500)

日本の経済哲学を創立した左右田喜一郎(1881-1927)の初期と晩年の思索について、その学問的意義を再考する。左右田は博士論文Geld und Wert (1909)、および、著作Die logische Natur der Wirtschaftsgesetze (1911)によって、弱冠三〇歳にて独自の経済哲学を確立すると、その後は日本において、文化哲学の新たな地平を築いていった。若き左右田にとって、銀行業における不換紙幣制度の確立は、近代社会の偉業となるべき歴史的課題であると同時に、彼の独創的な理論の隠れた中核でもあった。まずこの点を理論的に明らかにする。しかし左右田喜一郎は、実業家としては父から受け継いだ左右田銀行を倒産に追い込み、理論とは裏腹に現実の辛酸をなめている。左右田は惜しくも四七歳にて夭折するが、晩年の左右田は、西田幾太郎の哲学と向き合うことによって、自身の哲学的立場を練り上げようとしていた。本稿では絶筆となった論文「西田哲学の方法について」を読み解くことで、死と向き合う左右田の「理性と尊厳」を省察する。

 

 

0.はじめに

 左右田喜一郎(1881-1927)は、日本の経済哲学を創立した人物として知られる。博士論文Geld und Wert(邦題は『貨幣と価値』)(1909)、および、著作Die logische Natur der Wirtschaftsgesetze(邦題は『経済法則の論理的性質』)(1911)によって、左右田は弱冠三〇歳にて独自の経済哲学を確立すると、その後は日本において、文化哲学の新たな地平を築いていった。

左右田哲学の要諦は、新カント派の文化価値概念を自己流に改変することを通じて、経済哲学の基礎論を確立することにあった。その独創的な哲学を一言で述べると、「真」・「善」・「美」という三つの超越的文化価値に加えて、「貨幣」もまた、同列の超越的価値たりうると主張する点にある。各人の人格の完成を導く嚮導理念としての真・善・美。これらの理念と並んで、「貨幣」も同様に人格の嚮導理念たりうるというのが、左右田のオリジナルな着想であった。

この独創的な哲学は、『経済哲学の諸問題:左右田喜一郎論文集第一巻』(1916)、および『文化価値と極限概念:左右田喜一郎論文集第二巻』(1922)の二つの著作において全面的に展開されているが、その着想はすでに博士論文『貨幣と価値』にも見出すことができる。おそらく左右田は、実業界における自身の役割、すなわち左右田銀行の後継としての役割から、他の学者にはない使命感とビジョンを当初から抱いていたのであろう。カール・メンガーが自身のジャーナリストとしての経験を生かして、当時の貨幣社会を記述的に説明することに力量を発揮したとすれば、左右田喜一郎は、銀行家としての自身の使命感から、当時の貨幣社会のあるべき方向性と任務を的確に見極めることに成功したと言える。本稿ではこの点について明らかにしたい。

 もっとも左右田喜一郎は、最終的には銀行家として成功せず、左右田銀行は倒産に追いこまれてしまう。倒産という辛酸をなめた左右田は、晩年になってどのような思索にたどりついたのであろうか。若き左右田にとって、銀行業における不換紙幣制度の確立は、近代社会の偉業となるべき歴史的課題であると同時に、彼の独創的な理論の隠れた中核でもあった。しかしこの課題に挫折を経験した左右田は、はたして自らの哲学的スタンスを変更するように余儀なくされたのであろうか。左右田は惜しくも四七歳にて夭折するが、晩年は、西田幾太郎の哲学と向き合うことによって、自身の哲学的立場を練り上げようとしていた。本稿の後半では、左右田喜一郎の晩年の思索について、若干の検討を試みる。

すでに筆者は別稿[1]において、左右田喜一郎の哲学に関する総合的な検討を試みたが、本稿ではそこにおいて展開できなかった二つの主題、すなわち、若き知性を遺憾なく示した「貨幣(本質)論」と、晩年の思索の到達点である「西田哲学批判」について、それぞれ検討を加える。本稿は別稿の補論として位置づけられる。

 

 

1.貨幣本質論

(1)評価社会の成立

 およそ学問の業績において、博士論文こそがその人の最も独創的な仕事となるというのは、往々にしてありうることである。左右田の場合にも、理論的な貢献としては、博士論文『貨幣と価値』が最も際立っており、その内容は他の貨幣学説と並んで光っている。以下にその内容を検討したい。

 左右田は、いわゆる関係主義と呼ばれる立場から議論を起こしている。関係主義とは、社会の基本的要素を人と人との関係とみなして、その特徴を個人や社会全体のいずれにも還元できないとみなす考え方である。しかし左右田によれば、社会とは、人々の諸関係や相互作用そのものではなく、むしろそれらを抽象化・客観化したものである。社会は、個人より引き離された独立の単位となりうるのであって、社会現象は個人現象から独立している。では、個人現象に還元できない社会現象とは何か。それはいかにして成立しうるのか。これが左右田の立てた「社会科学の根本問題」であった[1930a: 258]

この問題を現代的に言い換えてみると、「人と人の関係が物象化する機制はいかなるものか」という問題になるかもしれない。しかし左右田の場合、物象化という現象は、それ自体が解消されるべきものではなく、むしろ社会が成立するための本源的な機制であるとみなされた[2]。物象化の機制が本源的であるならば、個人現象を離れて社会現象を本源的に成立させるための先見的な条件とはなにか。左右田によれば、「経済」という社会現象における先験的条件は「貨幣」である。貨幣こそ、個人に還元することのできない社会現象であり、また「社会」概念の成立と重なるという。では貨幣は、いかにして個人現象から出発しつつも、それに還元できない要素として出現するのであろうか。左右田の貨幣論は、この問題をめぐって独創的な論理を展開する。

まず左右田は、議論の補助線として、「評価社会」という概念を導入する。「評価社会」とは、諸個人が個別に対象を評価することに加えて、間主観的に、集団の一員として対象を評価することができるような社会である。ある対象(商品)が社会的にその価値を評価されるという場合、その評価は、たんに諸個人の欲望の総和から説明できるのではなく、また諸個人をまったく離れて成立するものでもない。かといって間主観的な評価は、個人の評価から導出することはできず、またその平均や共通に還元できるものでもない。左右田のいう「評価社会」とは、個人評価から出発しつつも、そこから概念上独立した評価主体が外面上成立するような社会[1930a: 305]であり、その主体の評価強度によって、他の評価社会との区別をつけることができるものだという。

これは例えば、芸術品の評価をめぐって、ある鑑定団のような評価主体が自生的に成立する場合であろう。芸術品に対する鑑定団の評価は、諸個人の主観的評価の平均に還元することはできない。それは一つの独立した間主観的評価として、諸個人評価よりも正当な評価主体として成立することができる。貨幣についても類似の評価社会が成立しうる。例えば外国為替市場の安定を図る場合、各国の中央銀行は、自国貨幣の価値に対して一定の間主観的な評価をくだす必要がある。そしてその場合の「貨幣の価値」は、貨幣に対する個々人の主観的な評価には還元できないような間主観的評価をもつ以上、中央銀行はそれを独自に判断しなければならない。左右田のいう「評価社会」とは、鑑定団や中央銀行[3]のような集団であり、それらは諸個人の平均的な間主観的評価よりも、さらにすぐれた間主観的評価を下すことができるような、優越した集団を想定している。

 

(2)貨幣の成立

 そして左右田によれば、こうした評価社会の成立が、貨幣の成立と相同であり、またその成立の到達点を説明するという。左右田にとって貨幣の成立とは、貨幣を担う物体がその実体価値を離れて、「価値尺度機能(職分)」のみを引き受ける段階(金・銀との兌換を保証しない不換紙幣の成立)である。そしてこの段階は、貨幣の「ファンクション(機能=職分)」がその実体価値から独立する段階[1930a: 313]であり、その独立は、「評価社会」を担う「ファンクション(職分=階層)」が成立することを意味する。ファンクションという言葉には「機能」と「職業上の担い手=職分」という二つの意味がある。ここで左右田は、この二つの意味を架けて、貨幣の機能としての独立が、その評価=操作主体の職業的分化と同時に成り立つと考えて、そしてその成立をもって、貨幣の完成態の出現とみなしたのであった[1930a: 331-337]

 ただし、貨幣がその実体価値から完全に遊離して、金本位制度から不換紙幣制度へ移行するという歴史的段階は、左右田の時代においてはまだ実現していなかった。そこで左右田は、「不換紙幣制度」を貨幣発展史の完成態として展望するという、一つの理想を理論に託した。貨幣が機能として純化する社会、すなわち不換紙幣が流通する社会とは、貨幣価値を操る集団が一個の独立した支配層として出現する社会である。左右田はそのような社会が、貨幣の形式の極限(当為価値)としてあらかじめ理論的に想定されなければならないとして、その論理的先行性(アプリオリな与件性)と歴史発展の最終段階を重ね合わせている。というのも、アプリオリなものを歴史の最終目標に想定しなければ、貨幣の生成を系統立てて説明することはできない、というのである。

 貨幣機能の純化をアプリオリに想定することは、次の二つのことを意味するだろう。一つには、既存の経済社会はすでに、この貨幣の概念を論理的にアプリオリな仕方ですでに含んでいるという、貨幣の形式的先行性である。そしてもう一つには、将来社会は貨幣の機能的純化に向けて、必然的に移行しうる、あるいは移行すべきである、という歴史法則主義の認識である。左右田の歴史法則主義については別稿にて説明したが、貨幣の形式的先行性については、左右田の論理はあまり明確とは言えない。それを私なりに解釈してみると、およそ次のようなことが言えるだろう。

 いま、上着をもったxさん、小麦を持ったyさん、饅頭(まんじゅう)を持ったgさんがいるとしよう。xさんは上着を小麦に交換したいと思っているが、しかしyさんは上着を欲していないようである。そこでxさんは、自分の上着をまずgさんの饅頭と交換して、その饅頭をもってyさんを訪れれば、yさんは饅頭と小麦を交換してくれるだろう、と期待する。そこでまず、xさんとgさんのあいだで上着と饅頭が交換され、しかるのちに、xさんとyさんのあいだで饅頭が小麦と交換されたとしよう。以上の交換において、xさんはyさんの選好を理解している点で、すでに「準評価社会(集団として未分化の評価社会)」[4]の一員として振る舞っている。またyさんとgさんは、xさんの上着をどれだけの饅頭ないし小麦と交換すべきかについて、一定の「評価強度」をもっている。こうして三人のあいだには、準評価社会が成立している。しかし三人はいずれも、財の「対象価値」を求めて交換するのであって、財の「媒介価値」に関心を寄せているわけではない。誰も饅頭を貨幣として用いようとはしていない。

ところがここに、歴史の新たなる発展段階として、gさんは饅頭の「媒介価値」に気づき、饅頭を食用としてではなく、人々のあいだを流通する「媒介物」用として生産しはじめたとしよう。gさんは、饅頭の「媒介(交換)価値」に気づき、これを貨幣として生産しはじめたとしよう。左右田によれば、貨幣機能の分化は、このgさんが媒介価値を意識的に構成しはじめる点に起因する[1930a: 322]

 カール・メンガーの貨幣論にしたがえば、貨幣とは交換可能性をもった財のことであり、以上の例においては、xさんが饅頭の「交換可能性」に気づき、「とりあえず饅頭をもっていれば、いろいろな財を購入することができる」と考えて、より交換性の高い饅頭を買うようになることが、貨幣の萌芽形態であるとみなされよう。しかし左右田は、このメンガーの説明を拒否する。xさんは、かりに交換可能性の高い財を求めるとしても、彼はその財に対する「評価強度(尺度)」をもちあわせていないかもしれない。これに対して、xさんが尺度をもちあわせていなくても、yさんとgさんが尺度を持ち合わせていれば、交換は成り立つはずだ、というのが左右田の独創的な論点である。xさんの営みに、尺度機能としての貨幣の萌芽形態を認める必要はない。むしろ、gさんが「価値の構成(生産)過程」において独自の営みをはじめるところに、貨幣が財から「分化」する最初の段階をみとめるというのが左右田の立場である。

 メンガー的な貨幣内在説の立場に立つならば、ここに、xさんとyさんとgさんの三人がいて、xさんによるyさんの選好理解と、yさんとgさんによる評価強度の認識が成立する場合、これらをもって、貨幣の尺度機能が働いたとみなすことができる。この時点では、貨幣はまだまったくの未分化であるが、しかしこの準評価社会の成立を前提としなければ、貨幣は出現しないのであるから、論理的にはこの三者の評価社会をもって、貨幣はすでに胚胎されていたことになる。ところが左右田によれば、貨幣の論理的先行性とは、貨幣の形式が議論の最初の段階に想定されること(胚胎されること)ではなく、それが歴史の最終段階の純粋性を保証するものとなることである[1930a: 609]。最終段階をあらかじめ予料しなければ、貨幣の出現を見定めることができない、というのが左右田のアプリオリズムであった。

もっとも左右田は、貨幣社会の最終段階を不換紙幣社会であるとみなすものの、その紙幣が国定であるべきか、あるいは民間の発見銀行を認めるかという問題について、明確な立場をとっているわけではない。貨幣の純粋形式という左右田の着眼点は、おそらくこの問題に明確な答えを与えることができない。不換紙幣であればなんであれ、「貨幣の純化形態」とみなされるからである。左右田の理論的関心は、経済システムが「自然経済」から「貨幣経済」へと完全に移行する過程に向けられていた。具体的には、金本位制度から不換紙幣制度への移行である。

しかし今日の観点からすれば、貨幣の発展段階は、国定不換紙幣の段階から、別の貨幣段階へ移行するかどうか、という点に人々の関心が集まるであろう。この問題を考えるとき、私たちは左右田の理論をさらに展開して、国際的(ないし地域的)な評価社会の成立にもとづく、新たな国際(ないし地域)貨幣社会の出現を展望しうるかどうか、という問題を論理的に展望しなければならない。

 以上、本節では左右田の貨幣論における評価社会と貨幣社会の成立について、新たな思索を加えてきた。彼の貨幣論は、とりわけメンガーの貨幣論との対比において、改めて評価するに値するだろう。

 

 

2.晩年の到達点

 では、晩年の左右田喜一郎は、どのような思考を残して去ったのであろうか。ある哲学者や思想家の思想全体を評価する場合、私たちはしばしば、その人が最晩年に残した手稿や手紙、あるいは絶筆の論文の内容をもって、その人の最終到達点とみなすことがある。左右田にとって、絶筆となった論文「西田哲学の方法について」『哲学研究』第百二十七号所収(一九二六年)は、彼が一九二五年に胃潰瘍で倒れてから、一九二七年に死を迎えるまでの二年の間に書かれたものであるが、この論文を読むと、左右田がどのような問題に頭を悩ませていたのかを窺い知ることができる。実は、この論文の最も重要な部分は、明確に書かれていない。そこで最後に本論文を取り上げて、左右田喜一郎の思想的旅路の終着点を解明してみたい。

 自らの死を予感した晩年の左右田は、西田哲学と向き合うことによって、自身の「生」の問題に思索を重ねていた。左右田は西田幾多郎の哲学体系を賛嘆し、それがすべての学徒の願うところの「安住の境地」にしっかりと足踏みしていると祝意を表すものの、しかし左右田にとって西田哲学は、その根底から間違っているという[1930b: 501f]。第一に、西田にとって理性の究極の領野たる「絶対無の場所」は、「意志と直観と自覚の世界」であるとされているが、しかし左右田によれば、「意志」や「直観」や「自覚」といったものは、理性によって捉えることができない以上、学問的探求は、理性の範囲内に消極的に留まるべきであるという。第二に、西田哲学は「場所」をもって「無」と考えるが、しかし「すべてを否定すると同時に肯定するものが無である」とすれば、今度は「有」とは何であるかが分からなくなってしまう。第三に、西田哲学は「相対無」を超えて「真の無」の段階を想定するが、しかし「真の無」という反省意識に終着点はない。反省意識は「真の無のさらに真の無」という具合に、終着点を得られずに無限背進するはずである。そして第四に、「絶対無の場所」においては、意志と直観はどのような関係に立つのか、という疑問が残ると左右田は指摘している。

以上の批判は要するに、学知を反省的に捉え返す観点は、学知の要求を超えて積極的に語ることができない、ということである。カント的な理性(学知)の範囲内にとどまるとすれば、私たちは西田のように「場所」「無」「自覚」「意志」「直観」などについて積極的に語ることはできない。

左右田による以上のような西田批判は、「生きる権利と義務」をめぐる彼の考察において決定的な意義をもつように思われる。左右田は、各人が超越的な文化価値の実現を求めて生きる場合に、はじめて人格の尊厳が与えられると考える。例えば、学者や芸術家が文化価値の新たな発展に寄与する場合に、人格の尊厳が認められるという。では、そのような文化価値を実現する見込みがもはや得られずに、人が死に直面する場合、人は人格の尊厳をもつことができるのだろうか。晩年の左右田は、おそらくこの問題に直面していたのであろう。人が人として最低限の尊厳を確保しうるとすれば、それは、「もはや文化価値の実現可能性から遠ざかってしまった自らの生を『断つ』権利」=「自殺する権利」においてであろうか。それとも、人は尊厳ある存在として、文化価値とは無関係に「生存の義務」を負うのであろうか[1930b: 525]。左右田哲学の観点からすれば、人間の最低限の尊厳は、「自殺する権利」によって与えられるように思われる。というのも自殺は、理性によって人格の尊厳を確保する行為だからである。では人は、もはや文化価値の極限を追求できなくなった場合に、自殺を試みるべきであろうか。左右田は述べてはいないが、彼はおそらくこの問題をめぐって逡巡したのであろう。

この生存の権利と義務をめぐって、西田哲学であればどのように答えるであろうか。左右田の推論によれば、西田は次のように答えるであろう。まず、生存の権利も義務も、生存を前提とするものであって、それらは「生」という事実に関する一個の言辞にすぎない。生と死とは、ともに権利と義務の関係を超越するのであって、それらは共通の場所において捉えられなければならない。しかしこの西田の「場所の哲学」は、生の権利と義務について、深い思索をもたらすことができない。生の権利と義務に関する考察は、西田哲学のように、生の有無を問う全般的な問題によっては、律することはできない。この問題の考察は、理性の範囲内にとどまって思考しなければならない。というのも、生を断つ権利を認めるためには、理性を人格の最高原理として認めなければならないからである。おそらく左右田は、以上のような推論から、西田哲学が人格の尊厳の問題に応じていないことを批判したかったのであろう。自らの生を断つ権利を「人格の尊厳」として認めるためには、理性の反省に終着点があってはならず、理性はどこまでも無限に背進して、どこまでも個人的なものとして保持されなければならない。しかし西田哲学は、このような個人的・理性的な人格の尊厳を基礎づけることができない。これが左右田の西田批判の核心であったように思われる。

むろん、左右田は「死」の問題に独自の哲学的意味を与えたわけではない。ウェーバーやジンメルが見て取ったように、文化価値の発展に捧げられた生は、自らの死に意味を与えることができないという「死の無意味化」に苛まれる。左右田の場合も同様に、「死の無意味化」という問題を抱えたのであろう。しかし晩年の左右田は、死の意味の問題を、「生を断つ権利としての理性(すなわち人格の尊厳)」の意味の問題に置き換えることによって、理性を救い出そうとしていた。はたして左右田喜一郎が自殺を試みたのかどうか定かではないが、実は一九二七年三月、死の五か月前に、左右田が頭取を務める左右田銀行は、休業に陥っている[5]。一九二〇年の不況と一九二三年の関東大震災の衝撃によって、経営の苦境に立たされたためである。左右田は自らの社会的責任を痛感して、全財産を提供して預金者のためを計り、一切の公職を辞して事業整理に専念することにした。事実上倒産した銀行業を整理することは、左右田のいう経済的文化価値の極限概念とは、何ら関係がないかもしれない。しかし左右田にとって、自らの社会的責任を果たすことは、人格的尊厳の証しであった。はたして人間は、自らの生を絶つ権利をもつのか、それとも他者のために生きる義務を負うのだろうか。私たちの理性は、このいずれをも肯定するように思われる。そしてこの二つの要請をもって生きることこそ、晩年の左右田喜一郎が死守した人格の尊厳であったように思われる。

 

 

*引用に際して、旧字体をひらがなや新字体に改めた。また、左右田喜一郎の文献参照指示は、テキストの発行年と頁数のみを表記した。

 

 

文献

橋本努[2006]「左右田喜一郎――真・善・美にならぶ貨幣」鈴木信雄編『経済思想 第10巻』日本経済評論社

左右田喜一郎[1930a]『左右田喜一郎全集 第二巻』岩波書店

左右田喜一郎[1930b]『左右田喜一郎全集 第四巻』岩波書店

武藤光朗[1956]「左右田喜一郎と経済哲学」『哲学会誌』第七号

 

 



[1] 橋本[2006]を参照。

[2] 「個人が特定の意味においてまた特定の領域において個人としての独立の存在を失うときに、……はじめてその源を個人に発しながらなおかつ個人には属せざる、個人以外に概念的独立性を有する認識の対象が出現し来るものである」[1930a: 273]

[3] あるいはこれに民間の発券銀行や信用銀行を加えることもできる[1930a: 336]

[4] まだ一定の社会の中から独立した集団として成立していない評価社会。左右田はこうした社会をも評価社会と呼ぶが、彼自身の定義に反する用法となっている。以下では左右田の用法に代えて、これを「準評価社会」とする。なお、個人が社会「全体の一員として行為するという意識」をもつ場合の「評価社会」を、左右田は「貨幣社会」ないし「貨幣流通社会」とも呼んでいる[1930a: 355]

[5] 武藤[1956]を参照。